椿の季節

重松博昭
2020/03/16

 それまでは春のようで梅は当然のように花開き、まるで梅雨のような長雨に椿の煮えたような朱色が山のあちこちに散り、雑草達も黄緑に縮み上がることのないまま濃い緑を浮き上がらせていた。

 2月初め、吹き荒れる風が急に冷たくなり、空を奔る灰色の雲の深みから時おり青空がのぞいた。昼頃、治郎君(33歳、気仙沼出身)到着。とりあえず勤めをやめ、どう生きていくか土台から具体的に考えたいとか。といって行き詰まるとか思い悩む風でもないようで、いたって平静、覚めている。精神的にタフなのかな。まずは下の通りからピースの支えにする竹を運んでもらう。中肉中背で動きは軽い。肉体労働の経験はあまりないようで、土間でのクルミ割りと実をほじくり出す作業、薪を鋸やチェンソーで切る仕事、ピースやソラ豆の草取り等々、自身の体と空模様にあわせてやってもらうことになる。そのへんのことはいつも妻のノンにお任せしている。

 最近のウーファーさんでは珍しくアレルギーはない。毎朝、産みたて割りたての卵を玄米飯の頂上に落とし、いかにもシアワセそうな表情で醤油をかけ、ワシワシとかき込んだ。おでん(里芋の緻密な柔らかさ)、その残り汁を使いもんじゃ焼き風お好み焼き、皮から作る水餃子、ターサイたっぷりの肉まん、自家製ベーコンとセロリ等のピザ、パセリの香の効いた卵サンド……ノンの料理をいつもゆっくりと味わって平らげた。

 五右衛門風呂も底からわく柔らかな温もりがいたく気に入ったよう。そう、この風呂は優れものなのです。ふらりと裏山に散歩がてら登り、枯れ木を拾い集めて燃やすだけ。電気・ガス・石油と比べると、その全体の手間暇を考えるなら、なんて軽々とシンプルなんだろう。森林の保護・育成にもつながる。どこまでも奥深い薪の炎を見つめドブロクを呑むひとときは最高だ。熱効率がいいのですぐに沸くし、熾火が残るので冷めにくい。木灰は良質の肥料になる。

 しかし、いつの間にか家庭から薪の火は消えた。何といってもガスや電気のほうがはるかに楽でクリーンだったから。生活のほとんどすべてが楽でクリーンになった。その分、カネ稼ぎに追われるようになった。私たちは生活者ではなく消費者になった。生活をしないですむことこそが進歩なのだった。料理、子育て……遊びさえも。情報も消費するものになった。考えることもAIにお任せすることこそ、時代の流れなのだった。

 AIって何だろう。人類の知恵の結晶にはちがいないだろう。ただし集積・蓄積可能の知恵だろう。私には集積・蓄積不可能の知恵があるような、そっちのほうが大切なような気がするのだが。そもそも間違いだらけの人間が、その不完全な知恵・情報の、そのまた表層・部分を集めて、「人間もどき」を、「超人間」を作ることに何の意味があるのだろうか。ましてその「超人間」の奴隷なんてまっぴら。自身が生きること、死ぬことをAIにお任せしたくない。

 さて、治郎君はもわもわと煙にむせながらも薪を燃やす術を覚えたし、一輪車で肥料を畑に運ぶ足取りも、とうだち寸前の大根を抜き、洗い、干す身体のこなしも力強くなった。それにしても雨が多い。彼は静かに集中する仕事が性に合うようで、おかげで手間暇のかかるクルミと銀杏の始末を一気につけてくれた。銀杏は蒸して実を取り出し、冷凍した。

 それにしても骨身にこたえましたねえ。2月18日の雪と、その翌朝のこの冬一番の寒さ。その後、どうやら3、4日、晴れが続き、やっと畑を起こすことができた。25日、寒さ緩む。夜になって雨しとしと、暑いくらい。雨がやんだ翌朝10時前、治郎君、3週間の滞在を終え、雑草園を発った。

 なにかしら気がゆるんだ。それでもほうれん草、春菊、チシャ、小松菜を少しづつまいた。冬の間、青々と茂っていた山東菜、チンゲン菜、ターサイ等々は中央にすっくと芯を伸ばし、花を開きかけている。28日の夕方から丸1日雨。風邪をひいたのか身体が重く、歯茎が痛い。3月4日、ホームセンターではバレイショの種イモ、売り切れ。春が早いせいだろうけど、我々日本人ってのはすぐにアセリまくるんだよねえ。マスクにしろトイレットペーパーにしろ。ティッシュがなければ、ハコベやギシギシの柔らかい若葉があるじゃん。5日、うちの去年のバレイショの残りを植えた。

 6日、ドッキンドッキンと歯茎痛む。ビワの葉を顎にくっつけて、何とか眠る。とうとう9日、歯医者に。歯の根が割れ、菌が侵入、炎症をおこしていた。歯を抜き、さらに切開、ちょっとした手術だ。麻酔をしても痛い。術後、看護師さん、「アルコールは控えるよう」。当然でしょ、第一痛みにゲンナリで飲むどころじゃない。

 帰りの電車でますます気分が悪くなる。麻酔も切れ始めた。ところが家にたどり着いた夕方5時半頃には、ほとんど痛みが収まってしまった。疲れがどっと出てきた。口の中がひどくえがらっぽく血の味も残っている。やむをえずビールで消毒した。いつになくうまかった。代わりに痛み止めは控えた。抗生剤はきちんと飲みましたよ。その夜、夕方から降り続く雨の音に包まれて久しぶりに安らかに眠った。

 翌朝、まだ小雨が続いていた。野一面を勢いよく覆う新緑が抜けるようだった。それにしても椿はしぶとい。散っても散っても、深緑の至る所に丸っこい蕾が湧き、次から次へと花を開かせる。

 その雨に浮かぶ透き通るような深紅が、なんともいとおしい。

 

         2020 3・10

石風社より発行の関連書籍
関連ジャンルの書籍