農を、ついでに老を遊ぶ 5

重松博昭
2023/08/16

 共に生きること、生きるための一つ一つを共に創ること以上の共育(教育)があるだろうか。私たちの場合、育てたというより育てられたというか。なにしろ妻のノンも私も子ども達と同様、農に関しては(人生もかな)新米だった。いつも一緒だった。バラックを建て、風呂・便所を作り、雨漏りと台風と暑さ寒さをしのぎ、畑を起し、栗・柿・アケビ・むかご・野イチゴ・桑の実・山野草を採り、薪を拾い、山羊と鶏(50~100)に養われ、人生の師であるボロ屋(地金屋)のおいちゃんから必要な日用品のほとんどを回してもらい、月2、3万で暮らしていた。生きることに必死というか、夢中というか、ただ生きていた。軽々としていた。保育園も学校も試験もナーンニモない。特に5、6歳までは遊べ遊べだ。野山を駆けまわれ、直に生命と触れ合え、心を通わせろ、直に葛藤せよ、痛い目にあえ、もちろん人間とも。自然の中の子ども社会こそ最高の学校だろう。自然と人間、人間と人間の結びつきのあり方をダイレクトに存在全体で学ぶことができる。
 私自身は決定的にこの学びが欠けていた。幼少時から病弱で弱虫でケンカ一つできなかった。家事の手伝いをした覚えもほとんどない。小学校3、4年からずっと「優等生」、頭でっかちで土台が全くできていないことに気付いたのは大学に入ってからだった。大地に返り、生き直して半世紀、今も人間関係におけるいい意味でのタフさに決定的に欠ける。嫌な現実・人間から常に逃げようとする。生活能力、特に片づけ能力欠乏症は根深い。
 で、わが子達だが、駆けまわる野山はいくらでもあるが、肝心の遊び相手が保育園(幼稚園)に全員集合で、これには参った。最終的には子ども達の熱望に従い、歩いて20分ほどの丘の上、木立に囲まれたこぢんまりとした保育園に。幸い、余計なお勉強などなく、伸び伸びと遊ばせてもらっていたようだ。
 次は小学校だ。何であんなに大勢が一か所に閉じ込められ、終日机の前に座らされなければならないのか。日本の学校教育というものは明治以降、本質的には変わっていないのでは。学校、工場、軍隊と並べてみるとよくわかる。あっさり言ってしまえば戦士、敗戦後は企業戦士の育成か。少々のきつさ、退屈さ、長時間労働にも黙々と耐え企業利益のため邁進する、そういった人材の育成には理想的かもしれない。日本の近代化とは西欧物質文明の吸収にほかならなかった。科学の成果の移入に他ならなかった。それらの知識・技術を上から与える、詰め込むためにも最適かもしれない。子ども達をまるで商品のようにテストの点数によって序列化し社会に送り出すためにも。
 いっそ小学校を自分たちでつくるか。例えば大正13年に創設された明星学園は生徒21人、教師4人だった。この頃から昭和の初めにかけて、同じような小学校があちこちで生まれている。あのトットちゃんの巴学園は太平洋戦争のアメリカ軍の空爆で焼失するまで存続していた。妻と私と友人たちで教師は事足りる。20人程度の教室ならすぐにでも建てられる。全寮制、食糧の自給も可能だ。一人一人に合わせた密度の濃い学習ができる。午前中だけ。話し聞き読み書きと算数のみ。あとはそれぞれが自ら学ぶ。午後はたっぷりの自由時間と生きることの学習だ。農作業、料理、片づけ、掃除、洗濯、物づくり、山歩き、川遊び、町への買い物、他の子たちとの交わり……すぐに私たちは福岡県庁に出向き、担当の職員の丁寧な説明を受けた。日本では新設の私立小学校はほぼ百パーセント認可されていない。そんな必要はないから。万が一認可されるにしても何億何十億の資金がいる。あっさりと夢は潰えた。
 今だったら、学校に行けない、行きたくない子のための「もう一つの学校」をつくろうとしたかもしれない。ますます学校教育の制度自体が形骸化している。時代にあわなくなっている。情報化、デジタル化、AI化が進めば進むほど情報・知識をただ頭に詰め込むことに意味がなくなる。自身の頭で思考し、自身の存在全体で感じ判断することがきわめて大切になる。その根本となるのがまず身体性・直接性だ。身をもって、直に、でなければ、現実そのまま、存在そのまま、生命そのままと触れ合えない。今、ここを生きれない。生命と生命が存在全体でぶつかりあえない。感応しあえない。思考に、一瞬一瞬を生きている新しさが、創造性がなくなる。感性に生命の深さと輝きがなくなる。AIとどう付き合うのか、付き合わないのか、人類が進むべき道を、生命の根源から考察するどころか、AIの奴隷になるのがせいぜいだろう。
 と言って、今の学校教師に創造性など期待するのは酷だろう。生徒たちというよりその親たちとのお付き合いと雑事の山で青息吐息なのだから。私たちに今すぐにでもやれることは生活・地域社会の再生だ。教育の一番の根っこはやはり親(あるいはそれに代わる者)なのだから。生まれて5、6年で教育の少なくとも半分は終わるのでは。
 新自由主義というより超資本主義(すべてお金)の現代にあっては、生活なんてしないで済むことが、その分仕事に回すことが進歩なのらしい。料理、片づけ、掃除、洗濯……子育ても。実にもったいない。料理等々もそうだが、子育てなんて生きる喜びそのものだ。創造だ。遊びだ。もちろんこの遊びはきびしいですよ。命がけですよ。だからこそ楽しい。
 女性の仕事社会進出、当然。カネ至上社会を生命の、共に生きるという視点で、根底から見つめ直さなければ。男性は生活・地域社会に進出しなければ。子育てというより、自分育てのために。人生を遊びなおすために。
                           続く  2023年8月9日

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