いっそコロナ革命? 下

重松博昭
2020/07/06

 Ms.サンドラ(オーストリア、25歳)との2か月余りはまさに「静かな生活」だった。私が卵の配達と最小限の買い物に、妻のノンが午前中、サンドラが夕方ハッサン(雌犬、10歳)と散歩に出かける以外はほとんど外出しなかった。

 ハッサンもトラ次郎(雄猫、11歳)も彼女がそばにいていかにもシアワセそう。ノンともすぐに通じ合ったよう。動きがなめらかで的を射ている。仕事が丁寧。まだ日本語は達者ではないが、私の言うことにも表情豊かに反応する。草取り、草刈、レタス類の移植、ウリ類の鉢植え、トウモロコシ・枝豆・いんげんの種まき……4月下旬には茶摘み、新緑がいっせいに、まるで緑の打ち上げ花火のように山じゅうを埋めた。クリ、コナラ、ユリノキ、グミ、桑、スモモ、柿……常緑樹のクス、カシ……

 ただ彼女は完璧すぎるところがあった。風呂場の横の斜面の草をそれこそ1っ本残らず根っこごと除いた。大雨で土が流れてしまう。食器洗いに石鹼を(合成洗剤ではなく昔ながらのだが)、流し等をみがくのにクレンザーを(わずかだが界面活性剤が入っている)使いすぎ。文化・生活習慣のちがいということもあるだろう。食もそう、酸っぱいの苦いのはてんから受け付けない。脂っこいの特にマヨネーズ大好き、甘いのも。でも玄米、みそ汁(呉汁)をはじめ野菜・卵が主のたいていの料理をおいしそうに食べてくれた。五右衛門風呂も(太陽熱温水器のシャワーもあるし)、蚊帳も時たま小屋のすみで見かけるクモも、高床式簡易便所も(数日おきに畑のわきの野ツボに運び、何年かかけて土に返す)問題なし。ただしうちに来たほとんどの欧米人と同様に太陽光線に無防備すぎ。

 日一日と日が長く強く、緑が深く密になっていった。早朝はいつまでも冬がぶりかえし、何度も霜にやられじゃが芋がかわいそうなほどに貧相。玉ネギは病気で白く枯れたように、いつまでたっても玉にならない。5月の連休明けのまとまった雨の後、ナス、ピーマン、トマト、ニガウリ、カボチャ、アマウリ、へちまの苗を植えた。オクラ、花オクラ、つる紫、えんさい、ピーナツ、そば、ゴマ……とまいていく。ニンニクとエンドウと赤ソラマメは上出来、連日、ノンとサンドラが収穫した。さっそくピースご飯を友人に習って。ピースを塩ゆでしてその汁だけを米に加えて炊き、最後に豆を混ぜる。すっきりとした味。

 5月後半からはずっと晴れ、6月に入っても。畑に太いひびが入る。サンドラにじゃが芋を掘ってもらって助かった。力が抜けるほどに不作。レタス類は枯れかかり、モロヘイヤもふだん菜(ヤーロウ)も大きくならず、青菜がなくなりかける。水の大切さをいまさらながら痛感する。

 6月10日の夜から雨、未明からやっと本格的に、明けても降り続き、なんとかピーマン、えんさい等生気がよみがえる。キウリ、カボチャはのびのび。

 この11日の午後、サンドラは旅立っていった。

 

 別にコロナ禍がなくても、人はやたらと群れ集まらないほうがいい。まず一人と一人がいて、一人と一人の関係があるほうがいい。だって呼吸するのも食べるのも排泄するのも一人だもの。私を生きるのは私だもの。誰も代わりに生きてはくれない。死んではくれない。「世間」も、「会社」も、「国」も。

 「みんな」と一緒でなくていい。一人一人違うんだから。何が良くて悪いか、何が楽しいか、幸せか、どう生きるか、最終的には自分で決めるしかない。この機に乗じてのお上の押し付け、管理・監視の強化だけは御免こうむりたい。

 密着しないほうがいい。まともに見つめあいアラさがしをするよりも、少し離れておおざっぱに同じ方向にむかって、いいかげんに共に歩んだほうがいい。やっぱり現場に、地に足つけてがいい。

 大都会の超密集地はまさに限界集落じゃないの。あんなにウジャウジャと人間ばかりが引っ付きあって、おまけにわけもわからず超多忙ときているのだから、肝心なことが見えなくもなりますよ。今度のコロナ禍で呼吸してることに初めて気づいた人も多いんじゃない。水も飲み、飯も食うれっきとした生き物なのよ、私たちは。その空気も水も食べ物もコンクリートジャングルは産み出してくれない。海・大地あってこそ。その生命の源である海・大地を致命的に汚染しているのは私たち「文明人」の廃棄物なんですよ。

 山里にほどよくパラパラと人が住んで、必要なときに助け合うのが一番いい。問題はその助け合いの仕組み、地域共同体が崩壊しつつあることだ。その地に根付いた自分たちの社会を自分たちで創ることを、私たち自身が放棄しようとしていることだ。私などこれほど心安らかな暮しはないと思うのだが、なぜか人々は都会に下っていく。最も基本的で最もやりがいのある人間的な仕事である農業の後継者は激減して、山間地の田畑は猪や鹿や竹林に占領されつつある。

 絶好のチャンスじゃない。都会の若い衆よ。「日常生活の冒険」というのはどうだ。山奥の廃屋・廃田畑に移り住んで、ゼロから、自身の全身で自身の世界を創るのだ。その一人と一人が結びついて「もう一つの社会」を創るのだ。

 冒険、冒険って、エラそうにやれ南極だ、ヒマラヤだ、宇宙だっていうけど(たしかにスゴイ、弱虫で非力な私はただただ脱帽)、でもそれって非日常でしょ、いわば旅行、いつかは帰ってくる、日常に。自分が生きて死ぬという日常生活以上の真剣勝負なんてないんじゃない。自分の人生を冒険すること以上にハラハラドキドキと切実な、ズシリと腹と胸にこたえるものはないんじゃない。

 まあ、たいていの冒険がそうであるように、そのほとんどは3K(きつい、汚い、危険)といえば確かにそうだし、退屈な日常の流れといえばまさしくそうなんだけれど……

          2020年7月5日

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