オーイ 秋

重松博昭
2019/09/24

 頭を整理して書こうと思っているうちに3か月が過ぎてしまった。それにしても鬱陶しい6月7月8月だった。風をひいてない時期のほうが短かったくらい。でも、山で汗をかくと、ふっと生暖かいだるさから解放される。あたりが暗くなると心は深閑と軽くなり、大空を奔るちぎれ雲のその奥に思いを馳せる。降り始めた激しい雨に木々や草々と打たれていると、雨の奥の、この世ともあの世ともつかぬ透明な灰色の世界に吸込まれていくような。どこまでも空でいられるような……逆に、鉄槌のような重い太陽と狂おしいほどの湿気に覆いかぶされると、生きる気力が芯から萎える。

 それに加えて人間界のどうしようもなさ。国と国も基本的には人間と人間と同じだろう。対等でなければ。私の心を重くしているのは過去のこと以上に現在のことだ。韓国は敵ではない。日本はアメリカの属国ではないはず。

 さて、5月15日、晴れ、午後2時半、筑前大分駅前に着いた。いつものように助手席にハッサン(雌犬、9歳)。正面階段のてっぺんに、長身でがっしりとしたサングラスの男性が突っ立っていた。日本語で声をかけると、開放的でくだけた調子で声をあげ(たぶん英語)笑いながら握手、Mr.マリオ(メキシコ、37歳)。となりがMs.マリアン(シンガポール、28歳)、ほっそりと小柄、小鳥のような初々しさと賑やかさ。二人ともすぐにハッサンにあいさつ。ハッサン、さらさらと尾をゆらす。

 最初の数日はスンナリと過ぎた。だんだんにマリオの本音が出てきた。というかウチの実態がわかってきてやる気をなくしたかな。まず片付けが、特に軒下の物置がなってない。あれやこれやが無造作に積まれ、何かが必要になるとそのたびにアチコチをひっかきまわさなければならない。出てくればまだいいが、例えば草刈り機を肩にかけるベルトが見つからない。その草刈り機もエンジンがかからない。修理のための工具もどこにあるやら。

 確かに、これが私の最大の弱点なのです。クリーンでピッカピカ、四角四面にきっちりというヤツが窮屈でたまらない。雑然がいい。汚れるの大好き。生きるって汚れることじゃない? 散らかす、汚れる自由を求めて、宇宙ステーションのような都会から大地に返ってきたんだから。もっと言えば、カネからの自由を求めて。消費ではなく創る、廃棄ではなく拾う豊かさを求めて。与えられた有り合わせのもので生活を創ることは散らかることなのだ。薪、古材、器、道具、衣類……米やヌカや耳パン等の鶏の食糧……ある時に集めておかねばならない。人間の食料も貯蔵しなければならない。見た目には乱雑かもしれないが、あくまでも必要なものを置いているのだ。いつでも必要なものを買い、不必要なものを捨てる都会流「シンプルライフ」とはいかない。

 さてマリオ、家のまわりのゴチャゴチャをすっきりさせたくてウズウズ。あちこちから工具やネジなどを捜しだし、草刈り機を修理してくれたのは大変助かったが、草刈りのほうは背中を痛めているのであまりできないとか。台所も気になるようで、薪ストーブの煤で黒くなった圧力鍋の底をピカピカに。丸太小屋のベランダの崩れかけていた床の修理も丁寧に丈夫に。妻のノンが、ナスやピーマンやキウリの支柱にする竹を切ってくれと頼むと、蛇がいるからイヤ。「マムシが怖かったら日本の土の上じゃ何もできないよ。」とノン、自身で竹を切りまくる。さすが彼、申し訳なく思ったのだろう。下の道路ぞいの竹林から竹の束を抱えウチの坂道を登っていたとき足をくじいた。幸い軽傷だったようで、夜のプール(サルビアパーク)には二人でいつもどうり、歩いて往復1時間くらい。結局、五右衛門風呂には一度も入らなかった。もったいないことで。

 料理の腕は抜群だった。なにしろ二人ともプロ中のプロ。毎昼と夕、ほとんどマリアンが作ったが、いつも二人で協議、ときおり彼が指示していたよう。どうも彼、自分ではあまり動かないけっこうエラい人なのかねえ。

 そのごく一部を。玄米飯の硬めのおかゆ入りロールキャベツ、和、洋、中いり混じったような不思議なあっさりとした味。パスタ、小麦粉等をこね、製麺機で。麺そのものが出色、ツルツルと柔らかかつコシと滋味。イワシを開き、たれをつけオーブンで焼く。あまり新しい魚ではなかったが、カリリとジュウシイ、臭みも身のくずれもない。言い遅れたが、材料も調味料もすべてウチのいつもの。玉ねぎとニンニク、ショウガはよく使ったよう。昨秋、収穫したショウガはなくなったので、二人がジンジャーの根を掘って代用した。初体験、ちゃんとショウガの香と辛み。油でカリカリに焼いた鶏肉をユズ胡椒で。ピースを煮てつぶし団子にして揚げる。デザート一品、米粉と小麦粉とイーストと水、間にピーナツとゆずジャムを挟みオーブンで焼く。マリアンの両親は中国人だとか。料理をしている時、ひときわ生き生き。

 マリオはうちの下の古い家で料理屋をやってみたいとチラリと思ったようだ。世界を股にかけている彼等のことだから、店を開くとしてもヨソでだろうが。誰か適当な人がいれば使ってもらってもいいと思っている。

 そろそろ私たちの次、を考える時が近づいたような。

 もともと私は何かになるためでも、何かを成すためでもなく、ただ生きる、そのためにこの地に来た。後継ぎがいないならいないで、この雑草園がただの雑木林で(決して産廃場等ではなく)残るのもいい。あるいは「地球村・雑草園」として、人々の生きる場、交流する場となるのもいい。

 もちろん、ノンにはノンの思いがある。全面的に尊重するのは大前提だ。

 

 木々と草々の響きのような鈴虫たちの声が、ひっそりと私を包みます

                2019年9月15日

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