掘っ立て小屋 31歳

重松博昭
2012/01/25

 夜が早いので朝4時半から5時あたりに目が覚める。10時間近くも横になっていると腰が痛くなり嫌でも起き出さなくてはならない。とにかく寒い。計8枚(うちトックリセーター2枚、ジャンパー1枚)を丸々と着込み、その上に丹前(死語かと思っていたら今一部の若者達に人気とのこと)を羽織り、布団に腰まで突っ込み熱いお茶を片手に書いたり読んだりする。じっとしていると芯から冷えてくる.内壁も天井もベニヤ板、断熱材なし、屋根はトタン。ようやく外が青白く、やがて白々と明け始める。

 震えながら土間に下りる。クロとハッサンが待ち構えている。やたらと広い。50㎡くらい、下はゴツゴツの土、天井が高い、外と同じ空気、零下、2、3度だろう。とにかく動くしかない。ハッサンは自由、私はクロに引きずられ、まるでゲートを飛び出る馬のように外に出る。

 まさに氷の世界だ。黒土も縮み上がった冬草も空になった山羊小屋も木々の枝々も、とにかくすべてが微細な氷の針に覆われている。2匹の犬を追いかけヨロヨロと雑木林へと登る。畑も鶏小屋も氷りついている。冷たさが透き通っている。雑木林の中は乾いて暖かそうな落ち葉がフカフカだ。

 落ち葉ふみしめて 生きる力もらう。

 次は鶏、70aの元栗山に16の小屋(畳20枚弱)が散在し、鶏達はその土の上で暮らしている。全部で700、一輪車でオカラ・トウモロコシ等を運びあげる。1時間後、餌やりを追え、山を軽々とした気分でおりる。ようやく待ち望んでいた日が昇る。すべてが氷の輝きに満たされる。まるでこの世界の誕生のような無垢の美しさだ。ふと長女野枝が生まれた36年前を思った。

 別に好きで掘っ立て小屋に住み始めた訳でもない。この地にやってきた時、家も金もなかった。技術も経験も体力もない生来の不器用者の私には、これしかなかったのだ。

 まず、どういった家を建てるかではなく、どういったタダの材料があるか、から出発する。上の山から松を切り出し、その丸太を埋め立てた。つまりまず水平ではなく垂直を決める。傾斜地そのままでいい。その柱に丸太を乗せ、トタン屋根を張る。あとは拾い集めた材料で床・外壁・内壁・天井をつぎはぎして出来あがり。一切見かけは気にしない。畳8枚の小屋が3週間、数万円でできた。実に壮快だった。コペルニクス的転回に思えた。何百万何千万費やす必要も、一生をローンに捧げる必要もない。要は雨風さえしのげればいいのだ。

 ところがそれが難事だった。何度雨もりに泣かされたことか。台風に恐怖したことか。ただ前者はまともなトタンをまともに張れば解決する。後者には防風林が有効だ。何よりここでも考え方の180度転回が必須だ。壊れないものではなく、壊れても致命的な被害にあわないよう、すぐに修復できるようにつくる。そうでないものはつくってはいけないのだ。その極が原発、絶対に壊れない物も、間違いを犯さない人間もない。もし100%を求められるなら、それは究極の管理社会だろう。

 この厳寒期、急に妻の母(87歳)が私達と共に暮らすことになった。幸い、去年の春、畳8枚弱の作業小屋を大工さんに建ててもらった。同大工さん作の太陽熱温水器の台(高さ約2メートル)があまりに見事でもったいないので、その下を小屋にしたのだ。健気でがまん強いわが妻も寄る年波には勝てず、選・洗卵、卵包みの際の土間の寒さに悲鳴をあげたのだ。さすがプロ、すき間なく日当たり良く断熱材きっちりで、義母の部屋にもってこいだった。妻もここで作業しながら彼女と話すことができる。便所は例の掘っ立て小屋を隣に作り、風呂は暖かな昼間に五右衛門風呂に入るか、近くの温泉に行くとして、食事はどこでするか。

 結局、土間に落ち着いた。義母は最初からもう何年もくらしているかのようにスーとここの生活に溶け込んでくれた。山羊のような仏のような優しく覚めた女性だ。夕食時には3人と犬2匹猫2匹で薪ストーブを囲む。薪の炎の澄んだ暖かさが最高だ。身も心も芯からぬくもる。

 火事でなくなった最初の小屋と合わせて37年、やはり気持ち良かったのだ。この暮しが。淀んでいない、閉じていない。外気が、風が、雨音が、この生活に芯を通してくれる。クリーンで、ピッカピカでなくていい。汚くて臭くていい。そのままでいい。トータルで軽々とした安定感がある。物に、金に囚われない自由がある。自らの生をつくる創造性がある。妻と3人の子ども達と共にゼロから生きてきたあの日々は、私の生きていく力だ。

 例によって酒で良か気分になった私は、早々に夜7時には寝床に引き揚げる。音楽と闇に包まれ、ぬくぬくとした布団の中でとろとろ、これも最高の幸せだ。

              2012年 1月18日

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