月の海

重松博昭
2024/01/30

 この正月前は49年ぶりに鶏をつぶさなかった。この山に移り住んで二年目以降、欠かさず鶏の首を切ってきたわけだ。年のせいだろう殺す気力が失せてきた。上前歯(差し歯)がざっくりと抜けたり、奥歯が欠けたり。それと寒さ、誰かが言ってたジェットコースターのような気温の降下、突然の雪、見事にトタン屋根に20cm強積もった。雪の日は坂を登るのが倍重い。動けば動くほど生きるエネルギーが足の底から漏れていくような。
 生きることは食べること、食べることは殺すこと。一羽の鶏を殺し、解体するなかで、命というものの底知れない生臭さといとおしさ、どうにもならないおぞましさと決して汚してはならない無垢とを感じる。「誰かを殺してみたい」なんて思う人は、自分の食う鶏の最期の始末を自身でつけたらいい。まだ脈々と命の流れているその頭をしっかりと左手でつかみ、右手に持った出刃包丁を頸動脈に当てスーと左から右へと撫でる。太い糸のような血が雨のように地にしたたる。鶏は動かぬ目で空(くう)を見る。一瞬、その眼差しに幼子のような無垢の光が走る。何度も何度も大きく羽ばたく。懸命に頭を上げる。天に向かって飛び立とうとするかのように。やがてがっくりと命は抜ける。
 人間の多数が自ら殺すことなく日常的に肉を食べるようになったのはいつ頃のことだろうか。確かなことは、人間が他の動物たちに対して圧倒的力を有しなければこれは有り得ない。動物たちを支配し、家畜化する。より多くより効率的に。当然、分業、専業化が進む。
 他の動物たちをほぼ完全に制覇して以降ではないか。人類が他の動物たちはやらない大規模な人間同士の殺戮、侵略、戦争を始めたのは。たがが外れたというか。野生・大自然への、生命への絶対的畏怖の念がなくなったというか。
 人間は「神」になってしまった。「神」あるい「天」あるいは「正義」の名のもとに、人間を支配し、殺戮するようになった。地球上のすべてを意のままにできると思い上がってしまった。「神」にふさわしい圧倒的破壊力をもってしまった。この「神」の眼差しで、マネーパワーと国家と一体となった巨大科学技術をこのままどこまでも「進化」させていくのだろうか。
 さて、つい偉そうなことを言ってしまったが、少しは肉も食べたい。国産豚肉が二倍近く上がったので鶏肉も食べるようになった。親鶏、つまり廃産卵鶏の肉はめったに売ってないので不本意ながらブロイラーを。半世紀ぶりにお節料理のがめ煮に使った。あとスーパーで厚揚げとレンコンと筍、もちろん里芋、ゴボウ、人参はウチの。酢かぶ、煮豆(まさめ)、卵焼きも。特別にスポンジケーキも焼いた。卵多め、砂糖控えめ、あと地粉、それだけ。しっとりと滋味深く。生クリームの純白に山イチゴの赤を散らす。この露の雫のような粒の香と酸味が、ケーキの心弾ませる甘味をさわやかに引き立てる。
 4日、4時半に起き、山小屋へと登った。寒さは鋭くない。闇一面に白っぽい雲が浮かぶ。五時過ぎ、雲の隙間遠く、星々が光っていた。六時過ぎ、コタツで書き物をしていると、鶏の悲鳴、懐中電灯を握り飛び出た。南端の小屋、鶏たちが騒いでいる。小屋に入ると何かが奥に走った。懐中電灯の光に、南の壁を斜めに駆け上る黄土色が浮き上がった。テンだ。体長は小さめの猫くらい、二回りばかり細い、入り口にあった木の棒を右片手でつかみ打ち下ろしたが空と地面を打ち、二つに折れた。敵は闇に溶け込み、次の瞬間には気配がまったく消えた。後には死骸一羽、頭・首は骨だけ残り、手羽と太もも・内臓の一部が食われていた。東の壁の下から入ったよう。とりあえずその穴を床土でふさぎ、明るくなって板を打ち付けた。その日は全部で4つの小屋の点検・修理に追われた。壁と地面の隙間、金網のほころび、屋根と壁の隙間等々。この季節、イタチ侵入の可能性も大なので2cm以下に。夕方、小屋の東脇に箱罠を、中に殺された鶏の内臓を下げた。食べようとすると出入口が閉まる仕掛けになっている。イタチは容易にかからないが、テンは6割から8割か。
 鶏小屋に一番近い山小屋の離れに泊まった。この夜は一段と冷えた。屋根も壁もトタンの畳六枚弱の細長い部屋で、ダイレクトに山の冷気が突き刺さってくる。とっくに酔いは醒め、眠れない。11時すぎ、用足しに戸を開けるとミーサ(雌猫、1歳7か月)が飛び込んできた。わが孫娘同然で自由はつらつ、厳寒の夜も下の家の屋根裏や山小屋や野や山を駆け回っている。私は誰であれ、どんな美女であれ一緒に寝るのは苦手だ。身動きが不自由と感じるだけで閉所恐怖を覚えるのだ。彼女を抱きかかえ山小屋の切り炬燵に放り込んだ。それからも眠れない。2時になった。ふと不安が頭をよぎった。あの好奇心旺盛なミーサ、外をうろつき、箱罠に近づくかも。罠に閉じ込められたら、この寒さ…震えながら服を着て部屋を出た。コタツを覗いた。いない。野を急いだ。テンがかかっていたら問題はすべて解決なのだが。罠は開いたままで空だった。
 あたりの野や畑一面、固く白く凍り付いた霜の花々に、天空に冷然と輝く月の精が乗り移ったかのように、青い光が充満し微細に波打っていた。
 すっかり冷え切ってしまって、こうなると寒さが恐怖だ。人間なんてちっぽけで弱いものだとつくづく思う。せいぜい零下1、2度でこのざまだ。まして天地がひっくり返り、がれきの隅で酷寒をしのぐとなれば・・・ただ祈ることしかできない・・・セーターを何枚も着込み足も包んで毛の帽子をかぶり布団の洞穴に潜り込んで、なんとか4時過ぎまでうつらうつら。起き出して火を焚いた。7時過ぎ、白々と明けた。結局、テンは現れなかった。鶏も無事だった。
 数日後の夜、「ミーサが初めてネズミを捕ったよ。ほめてあげなくちゃ。」とノン、ミーサが枕元に持ってきたらしい。これで彼女がただ夜遊びにうつつを抜かしてはいなかったことが証明されたわけだ。                完 2024年1月29日

 

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