「五島、生命の里へ」上

重松博昭
2017/06/16

 JR筑前大分駅前に妻のノンと車からおりたとき、夕闇のやわらかな冷気とかすかな新緑の匂いが心地よかった。留守番をしてくれる娘のノエに助手席のハッサン(雌犬、7歳半)のことを託し、彼女の運転する車を見送った。

 電車が博多駅に着くころにはすっかり日は暮れ、駅前には人工の光と音が疾走していた。バスで博多ふ頭へ。

 フェリーの待合室は倉庫のようでがらんと四角、どこか古風。5月4日(木曜)にしてはそう混雑していない。売店がまた昔の鉄道の駅のよう。ビールとピーナッツとテンプラ(高級料理の天麩羅ではない。わが地方では揚げた魚の練り物をこう呼ぶ)を買う。テンプラは失敗、やたらと油こく魚の味がしない。かまぼこや竹輪もそうだが、近頃まともなのに出会ったためしがない。ノンは行きずりの幼い女の子連れの若夫婦と話し込んでいる。帰省するよう、行き先は同じ。

22時前、「太古」に乗船、予約していた和室に。例の若夫婦たちも同室で向かいに、こちら側は男性2人と4人。なんとかくっつかないで横になれるていど。ノンはすぐに仰向きになり目にタオルを置く。私は船内を探索に。まずトイレ確認。船全体が、門司港から大阪へのフェリーよりだいぶコンパクト。中央あたりに自動販売機が並ぶ。淹れたてのコーヒー、150円。他にビール等、つまみ類、カップ麺、タコ焼き、焼きにぎり……水とお湯はただ。闇の海にひかれたが、外に出ずすぐに戻った。とにかく眠ることに専念せねば。閉所恐怖症の私は、密室に閉じ込められた気分になるといたたまれなくなる。幸い、狭いが通路が部屋の真ん中に通っている。なんとか落ち着く。

 23時半出港、24時、部屋の灯り消える。ノンは眠っているよう。私はようやくうとうと。隣の男性、こちらに向かって寝返りを打ち、その頭が私の頭に触れながら着地、直後、野太いいびき。起きてるなら注意もできるが、普通いびきは眠っている時しかかかない。仕方がないので身体を半回転、頭を通路側に、私のキレイな両足の裏でいびきの発生源にふたをする気分で足を伸ばした。向かいの女の子の方は物音ひとつしない。

 朝4時10分頃、宇久平港に。まだ暗い。部屋のみんなは眠っている。私も少しは眠れた。5時頃、小値賀(おじか)港、次で下船だ。白々と明るい。ノン、上体を起こす。あまり眠れなかったとか。5時半、寝具をたたみ、荷物を整える。若夫婦たちも。男性2人は熟睡、なぜかいびきは消えていた。

 5時45分、青方港に入った。実は私は五島というと、南の福江島と奈留島しか頭になかった。改めて地図を見ると、北からすでに寄港した宇久島、小値賀島。そしてこの青方港のある中通島、その上五島地区のほぼ中央、元開拓村広の谷(通称ひろんた)が、この旅の目的地だ。急いで付け加えれば、他にも若松島、久賀島等々多くの島がある。

 船を下りると、まだ白っぽい早朝に、なんの変哲もないコンクリートの駐車場が広がり、パラパラとおそらく迎えの人々。1人、それらしき男性がいるが、歌野敬さん(私と同年)にしてはちょっと学者風で静かな感じ。向こうもこちらに気づかないよう。ノンがすっと近づいて尋ねると、やはり彼、そうかもう20年以上会っていなかったのかと互いに苦笑い。笑顔の奥の覚めた目はまさに彼、ソフトな低音も。

 近年、あまり見かけない箱型・白の軽に乗りこむ。まだ眠っている町と郊外を少し走り、再び車窓に海、鯛ノ浦、長崎まで高速船で1時間半。ここから一気に山に。中小の山々がどこまでもどこまでも続く。通りから下りの道にそれ、さらに木々に囲まれる細い道に。どこまで奥に行くのかと心配になりかけたが、すぐに目の前が開け、左手に、山を背にして、さっぱりとして明るい横長の家とばらの赤と1匹の中犬が目に入った。車を下りてすぐ、ノン、尾を振る犬のところへ、尾も目も笑っている。

 玄関から上がってすぐの台所兼食堂兼居間が広い、奥さんの啓子さん、私達より少し若い。初めてという気がしない。全体に芯の通ったやわらかさ、年を取るにつれますます透き通っていくような。大きな長方形の飯台を囲む。切り炬燵、火は入っていない。長女の礼(あや)さん、身体は細いがスケールが大きく奥ゆきが深い印象。その息子が中1の普(あまね)君、父親がキューバ人、いたって素直で直截、澄んだ目がいい。

 まずは自家製新茶、ウーロン茶は風味、緑茶は香、水自体がほのかに甘い。心が洗われる。朝食のご飯は、たきたてを昔ながらのおひつに。ほどよくむれ、冷め、余計な水が抜ける。味噌汁、目玉焼き,タクワン、納豆、高菜漬けの油いため……。米や卵や野菜はもちろん麦味噌、醤油……と自家製、水は山の水。特筆すべきは燃料のほとんどが自家製炭、七輪を使う。

 薪と比べれば木炭の本質がよくわかる。かさばらない、軽い、煙が出ない、つけるのも消すのも火力の調節も火の管理も容易。つまり普通の家で普通に使えるということ。ある程度、断熱、防火対策がとられていれば。

 今度はガス、電気と比べてみればなんといっても後者の方が楽。だが料理の味は炭が勝る。焼き物は無論、炒め物も煮物も。火が繊細でやわらかなのだ。火力も強くできる。暖房においてもこの火の柔らかさという点で、電気、ガスに引けを取らない。

 エネルギーを作る、あるいは環境保全という点では圧倒的に炭が勝る。その辺の雑木を切ってきて(もちろん山をより豊かに手入れしつつ)、炭焼きするだけ。これだけでもかなりの労働だが、はるか地球のかなたの石油や天然ガスを取り出し、運び、精製し各家庭に配る。あるいは原発は論外だが、太陽光発電等々と比べてみてもなんて楽でシンプル、無害なんだろう。薪・炭→石炭→石油・電気……果たして進歩といえるのか。ほかにもいくらでもある。ラジオ→テレビ→個テレビ……固定電話→携帯電話(個電話)……蚊帳→蚊取り線香・網戸→サッシ・クーラー……巨大科学技術が生み出す新「文明の利器」をとにかく次から次へと消費し、廃棄することこそ進歩だと、豊かさだと私達は思い込まされてきた。あげく、原発と産廃場に取り囲まれてしまっている。

 ずいぶん飛躍しました。また次回に。

                    2017年6月14日

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