いっそコロナ革命? 上

重松博昭
2020/06/16

 3月後半までは新コロナウィルスの勢いはそれほどでもなかった。熊ヶ畑産廃場の裁判も福岡市であったし、市内赤坂門の歯科医院にも市郊外の母が入院していた病院にも行くことができた。3月末には一面灰白色の空の添田公園(田川郡添田町)の桜の下を歩いた。5分から7分咲きの清楚な白が風にかすかに散っていた。ちらほらと出会う人々もマスクをしていない。
 

 4月になって、連日、終日、コロナのニュースが流れた。日本全土、特に都市部で一気に蔓延が進んだ。筑豊ではほとんど感染者は出なかったが、福岡市は急速に増えた。
 

 重苦しい気分に。7日からMs.サンドラ(オーストリア、25歳)が滞在する予定だったのだ。WWООF(ウーフ)というイギリス発祥のインターネットで結ばれた世界的しくみがある。直訳すると有機農場で働きたい人々、その「ウーファー」さんに1日6時間以内働いてもらい、こちら「ホスト」は宿泊と食事を提供する。お金は一切介在しない。彼女は昨秋、来日、あちこち日本を回っている。現在地は鳥取で今のところ感染者はゼロのようだが。
 

 安全を第一とするならキャンセルすべきなのだろうが。でもねえ、絶対安全をというなら卵の配達もヒヨコを受取りにも、病院にも葬式にも行けない。買い物も散歩も立ち話も……。極力、世間との軋轢は避けたい私とは違って、妻のノンは信条というか思いを大切にする。特に弱い立場の人間への。やはり受け入れることに。
 

 その当日、未明の2時前から色々と頭を巡らせて眠れなくなる。そのまま横になって4時、起床、茶を3杯、4杯と飲み、少し書いて、5時過ぎ、動き出した。明けるのが日に日に早い。冷たいうす闇の中をハッサン(雌犬、10歳)軽々と駆ける。裏山を自由に走り回って30分、どこへも行かず一緒に帰ってきてくれるのが嬉しい。鶏の餌やり、鎌で草刈り、その青草を山のように鶏小屋に放り込む。駆け寄ってきた鶏たちがピシパシと小気味よくついばむ。7時半、ハッサンと車で出発。
 

 飯塚市筑穂のJR筑前大分駅、8時30分着の電車が一呼吸おいて桂川へと走り去ったあと、向かいのホームに女性一人、大柄で腰高、黒っぽいコートのような上着を翻らせ大きな縦長のリュックを右肩に、いかにも旅人らしいすっきりとした姿だ。駅から出てきたところで、私はヨーッと右手をあげ、ちらりと目が合った。大きめの黒縁のメガネ、黒い瞳が少女のように澄んでいて、いたずらっぽくちょっと笑っている。私の横にいるハッサンのおかげかな。ほとんど無言だが打ち解けた雰囲気で車に乗り込んだ。このところ秋のような寒い青空が続き、木々の新芽はまだ目にとまらない。野や田んぼの新緑が妙にすっきりとしている。
 

 結局、サンドラは2か月以上雑草園で暮らすことになった。コロナ禍で、出ていこうにも受け入れてくれるホストが見つからなかったし、彼女は就労ビザを持っていたが、働き口も泊まるところも見つかりそうになかったのだ。
 

 山に囲まれたわが町山田でも息が詰るよう。早朝の独り歩きの人もマスク、おちおち話もできない。訪問なんてとんでもない。コロナよ来るな、だ。もうすでにウイルスはあちこちに侵入しているかも……。
 

 今回のコロナ禍のなんとも心細いのは「みんな」とか「世間並」とかがてんで頼りにならないから、ではないかな。
 

 スシ詰め(この場合のスシとは発酵保存食品である押しズシ、嫌気性発酵なので飯がぎっしりと詰まり空気が入らないほうがいい)の満員電車も、街全体が巨大なコロセウム(闘技場・劇場)のような人、人、人……の渦も、3密そのもののコンクリートジャングルでの朝から晩遅くまでの仕事も、世間の流れに乗って、みんなと一緒にやっていると思えば苦にならない。多数の一員でさえあれば何がおこっても怖くない。
 

 というのはコロナ前の話で、コロナ後は多数であればあるほど、一緒で密であればあるほど怖ろしや、ということになってしまった。
 

 密といえば、「密室」というヤツもはなはだ頼りなくなった。ここでいう「密室」とはわれわれ現代人が求めてやまない安・楽・快・クリーンな居住空間のことだ。欲するものすべてを金によって外部から与えられ、嫌なものすべてを金によって外に出す、拒絶する。排泄物やゴミ等なら外に放り出せるけど、ウイルスはそうはいかない。空気同然なのだから。といって風が新コロナウイルスを運び入れることはまずない。ほとんど媒介者は人間、それもたまにちらりと来る客よりもいつも密着接触する人間、つまり自身も含めた家族が一番怖いということに。全員を外に放り出さなければ夜も安心して眠れない。
 

 ここに至って私たちはようやくごくごく当たり前のことに気付く。人間は自然から隔絶された人間社会の中で押しズシのように固まって生きているのではない。独り独りが自然の中に生きている。水の中の魚達のように、空気に浸かって、吸い吐き、生きている。私たち一人ひとりは人間社会の一員である前に一個の生命体なのだ。大都会の雑踏の中にいても、実は大自然に生身をさらして生きている。当然、大自然には諸々のウイルスが存在する。細菌も害虫も害獣(あくまでも人間にとっての害なのだが)もいる。それらをすべて葬り去ろうとするなら地球は死の世界に。その前に人類が死滅するだろう。覚悟を定めるしかない。ウイルスをはじめとする諸々の存在と付き合っていくことを。
 

 というか、むしろこの新コロナウイルスは我々人類にきわめて重大な警鐘をならしているのではないか。
 

続く

   2020年6月10日

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