タイムロード 4

重松博昭
2022/02/28

 暮れの30日の夕食後まもなく、台所兼食堂兼居間である新しく継ぎ足した部屋から火が出た。南西側の壁、薪ストーブの煙突の出口の下方だった。部屋にいたノンがすぐにバケツで水をかけたが火は壁の中の断熱材から外の板壁に燃え広がった。内壁は石こうボードなので無事だった。もし内壁も外壁もペラペラの新建材だったら一気に炎は膨れ上がり有毒ガスが充満したかもしれない。帰省していた野枝が切り炬燵の部屋から駆け付け咄嗟に内壁を手で破りバケツリレー、さらにノンがホースを引っ張り出して外側から水を注ぎ、私が山小屋から下ってきた時には、どうやら収まっていた。外壁はわずかに焦げた程度。
 やはり薪ストーブはこんな狭い部屋には無理だと思った。ストーブと煙突が高熱になれば、いつ紙や木や化学繊維等に火が移るかわからない。だがノンと野枝は壁のコンセントから出る火花を見たという。夕食の餃子を焼いたホットプレートが犯人では。他にも炊飯器、湯沸かし器などこのコンセントに集中し過ぎていた。私は納得がいかない。「電気の使い過ぎやったらブレーカーが下りるくさ。そげなことで火が出るなら、あちこち火事ばっかしばい」
 翌日、改めて点検してみると、壁の中のコンセントと断熱材は黒焦げだが、煙突周辺もそれを囲む角材も無傷だし、他も燃えた形跡はまったくない。正月明けすぐに来てくれた増築を請け負った白金さんと電気屋さんも彼女たちと同意見で、こんなことがまったくないとは言い切れないらしい。どころか野枝がパソコンで調べたところ、けっこう電気の使い過ぎで火事が起きているようだ。
 オール電化とはいっても、AI(人工知能)にすべてお任せは危険だ。初歩の初歩だがタコ足はだめ。それぞれのコンセントの容量を確認し、各電気機器をどこにつなぐかを人間が考え決めなければ。 
 さらに正月明けの数日後、この冬一番の寒さ、今度はエコ給湯がストップ、てっきりまた故障かとノンが電話をかけまくって、やっと修理に翌日来てもらうことになった。夕方近くになって、水が、次いで湯が出始めた。単純に水道が凍っていただけだったのだ。給湯器へと流れる水道管の防寒など完全に頭から抜けていた。これもオール電化にすべてお任せが招いたゴタゴタだった。
 こんな日々が続くうちに、早朝、坂道(タイムロード)を登り、まずは薪ストーブで一日分の湯を沸かすのが日課になった。少しでも周りに文字通り腐るほどある枯れ木を使い、電気を減らしたい。その間、ゆっくりと火のそばのテーブルで茶を飲み、ものを書く。落ち着くのだ。このあばら家の土間が。テレビもパソコンも電話も(もちろんスマホも)ない。使いもしないのに電気が流れ、いつもAIがそばにいるということがない。
 この50年、とりわけ20年だろうか、デジタル化が急速に進んだのは。デジタル化とは要するにAI化なのだろうが、何故、何のために、何が何でもデジタル化なのか。企業間競争、あるいは国家間の経済・軍備競争に勝つためには不可欠なのかもしれないが、我々一般庶民の生活に何の益があるのか。なぜ誰もかれもがデジタル化一直線でなければならないのか。
 私がまず感じるのは、近年、直接性というものが失われたということだ。コロナ禍がそれをさらに加速させた。もっとも、そもそも現代文明の本質が直接性の排除なのかもしれない。例えば車、ビル、マイホーム……とっくに私たちの周りから自然の直接性は排除されている。あるいはテレビが私たちの日常になった。家庭では食事や会話等々よりもテレビが主役になった。マスコミによってもたらされる「情報」の渦の中にいて、現場で見、聞き、認識する現実よりも「情報」の「現実」のほうがリアルになった。同時に、私たちの周りの様々の商品が、どこで、どう、誰(何)に作られ、どのように流通してきたのか、ほとんどわからなくなった。さらに電気機器等々、新しくなればなるほどブラックボックスになり、中がどうなっているのかわからなくなった。生活の直接性というものが失われてしまった。デジタル化はその最後のとどめかもしれない。人間と直に接するよりもスマホ、パソコンと対面する方がはるかに多くなった。今、ここ、の現実よりもスマホの「現実」の方がリアルに、切実になった。私はよほどのアマノジャクなのだろう。世の中がそうなればなるほど、私はいつも、今、ここの空を眺めていたい。今、ここの風に吹かれていたい。今、ここにいる人、生き物たちとの関係をまず大切にしたい。
 第二に空白が、意外性が、遊びが、冒険が失われた。みんながスマホにつながれて、一切から解放された空)(くう)に生きることが一瞬も許されなくなった。行方不明にもなれない。好き勝手にうろつきもできない。AIに支配・管理され、「楽」に「快」になったその分、予期せぬ出来事などほとんど期待できなくなった(想定外の災害はいつでも起こりうるが) 自身で考え、工夫し、自身の全身全霊で困難に立ち向かうことができなくなった。遊びがなくなった(娯楽、気晴らしはいくらでもあるが。金さえあれば) 遊びとは自ら創るものだ。すべてからの解放だ(たとえ一瞬であれ) 冒険は遊びだ。人生をかけた遊びだ。生きることは遊びなのだ。冒険なのだ。

 ゴタゴタはなおも続いた。今度はこの土間で。早朝、入ると、テーブルの上のタッパーの中にあるはずのパンがない。翌朝は高い棚に重い蓋をしてなおしていたタッパーが蓋ごと落とされ空になっていた。その二日後、ストーブで焼いたばかりのホットケーキ(ハッサンと私のおやつ)が、ハッサンとの30分弱の散歩から帰ると、消えていた。何度フライパンを見つめても一かけらもない。よほど大きなネズミか大群か……。

     続く  2022年2月17日

石風社より発行の関連書籍
関連ジャンルの書籍