毎年のことだが5,6月はよく風邪をひく。熱・咳・鼻炎はほとんどなく喉がぐずぐずと痛い、身体全体がだるい。鶏の食事のバケツを下げ、気力で坂を登る。山のあちらこちらの草むらや木陰に色づく野イチゴ、桑の実、グミ、びわ……が救いだ。なぜか食欲だけは落ちない。キャベツには助けられた。無農薬では無理かとあきらめかけていたのだが、地力が付いてきたのだろう、この3、4年、あまり虫にも食われず粘り強く葉を伸ばし、しっかりと巻くようになった。餃子、お好み焼き、チャンポン、皿うどん……。カボチャにも。去年の秋から此の方カボチャカレーを食べまくった。自家製ベーコン、玉ねぎ、さらにニンニク、そしてクミン、カレー粉(SB大缶)を炒め、ドバーッと煮たカボチャを注ぎ入れ、煮込む。塩、適宜。最後に隠し味で市販のカレールウちょっぴりとトマトピューレを入れることもある。
五月晴れが続いた後の少々雨は降ったがまだ畑が乾いているうちにニンニクと玉ねぎを収穫した。5、6年ぶりで玉ねぎがまともにできた。問題はじゃが芋だ。6月に入って晴れたり降ったりでじっとりと生暖かい。まだ収穫には早いが枯れかけてはいる。この高温多湿で雨が一週間も続くと、せっかく太った芋が例の生きることが嫌になるような腐臭を放ち溶け崩れてしまうだろう。無事収穫したと思ったら、貯蔵中に腐敗・伝染して全滅ということもあった。降りそうで、降ってもわずかだったが、10日、とうとう本格的に雨粒が落ち始めた。雨は続いた。とにかく蒸し暑い。15日、晴れ、曇り、たまに少雨、完全に葉が枯れた分、全体の半分ほど掘ってみる。1個、腐っていた。翌日、曇り、午後、8割ほど収穫終了、まだ土が重くねっとり。腐りかけたのが2、3個。
夜から風が強くなった。翌朝4時前起床、風の叫びが響いてくる。ヒューヒューではなくピュアーウニャーとなにやら生臭い。野良猫たちが風に唸っている。血が騒ぐのか。灰白色に明けて風はますます激しくなった。雨のエネルギーを存分に吸収して分厚く妖艶に大地に覆い被さる木々の枝葉が、重力から解き放たれ宙いっぱいに渦を巻くように奔放に放埓に踊り狂う。息を呑む私の身の空(くう)を、風のかたまりが吹き抜け枝葉の底の天空に吸い込まれそう。
17日、曇り、晴れ。18日、曇り、芋ほり完了、土はサラサラだった。結局、この日まで何もせず待った方が正解だったかも。とも言えない。まだじっとり水を含む畑もある。そこは7アールほど、前の持ち主さんが重機を入れ傾斜地を深く削り平らな段々畑にした。もう50年以上、鶏糞、堆肥、枯草、古畳、籾殻等々投入し続けてきたが、未だに固い赤土で、畑に適した団粒状の黒土になっていない。それほど豊かな表土を創るには長い年月の土の営みが必要不可欠なのだ。諸々の植物たち、枯草、枯れ葉…鳥、獣、小動物、その糞・死骸…モグラ、ミミズ、虫たち…微生物、ウイルス…雨、雪、霜、露、風…暑さ、寒さ…もちろんこれに人間の営みも加わる。ほんとうにありとあらゆる様々の存在が織りなす宇宙なのだ。土の世界は。豊かで実に繊細な世界なのだ。まだまだ分かっていないことだらけなのだ。同じ雑草園でも、所によって土の宇宙は様々だ。もちろん天候にも左右される。特にこの急激に極端に変化する「異常気象」の下では。自然との不断の接触が、繊細で注意深い知力だけではない身体全体での学びが必須なのだ。
簡単に大規模化、機械化、IT・AI化(当然、農薬・除草剤・化学肥料等の投与は大前提となる)しか、日本農業が生き残る道はないなどと言ってほしくない。何より大切なのは人間なのだ。土の宇宙の一員として生きる人間なのだ。この日本を数百年支えてきたあの強健で我慢強く誇り高い百姓たちが、高齢化・後継者難でほとんど姿を消そうとしている。まだ間に合うかもしれない。国・地方自治体がとりあえず稲作農家の「健康で文化的生活のできる」収入を保障する。後継者のいないところは全国(あるいは全地球)から公募する。田畑・家は無償無期限で貸し出し、一切口は出さない。
この日本列島に生き続けてきた私たちというのは、どうも土(草)に対する嫌悪が根強い。重圧を感じているというか。余りに存在が大きすぎた。豊かすぎたのだろう。甘えもある。なにをやっても大丈夫。少々自然が壊れたほうが人間が自由になる、解放されると思っている節もある。
私自身にしても、いつも朝起きて山を登るとき、なにかしら重苦しいものを感じる。特にこのじっとりと暑苦しい季節には。生きることそのものに対しての重苦しさかもしれないが。ところが、この重苦しさから解放してくれるのも土なのだから訳が分からない。生暖かい小糠雨に山小屋全体が包まれ鬱陶しさにいたたまれなくなって、合羽を着て外に出る。里芋畑に四つん這いになり、草をちぎり、あるいは鎌で刈り、周りに敷く。はびこって困るつる性等は根から取る。里芋の幼い葉と細長い笹のような草に落ちる雨の音がかすかにかすかに響く。誰にでもできる楽で単純な作業がいい。静けさの中で集中できるのがいい。たいして役に立たなくていい。無駄があっていい。空がいい。遊びがいい。一時間も過ぎれば、身も心も空に、軽々となる。よく考えてみれば当然のことだ。土は私たち生き物の源、生き、死ぬ場なのだから。
日本の農民は真面目過ぎたのでは。ひたすら「立派」な農作物というより商品をより多くより早く、そして収入をより多く。ならば、農業なんかやめて都会に出たほうがよっぽどいい。あまりに空が、遊びがなさすぎたのでは。食べ物を、生活を創る喜びを忘れてしまったのでは。自然とのふれあい、土の上での人間同士の、生命と生命の結びつきを自ら捨ててしまったのではないか。7月1日朝5時半、光と雲の白が溶け合って大空をおおっている。重い暑さになりそう。 完