朝4時前後、山小屋に行くと、ミーサは必ず出てきた。ストーブに火をつけると、そばに寄ってきてじっと炎を見たが、それ以上は近づかなかった。目やにはなかなか引かなかったが、よく食べよく眠り、身体つきも動きもだんだんしなやかになってきた。栄養が足りなかったのだろうと、毎日、卵焼き一個(ストーブで、油なしで)ぺろりと食べた。人間用の目薬をさしたり、ホウ酸で洗ったり、目やには減ってきて、目が黒々と表情がくっきりとしてきた。
いよいよスピード感あふれ変幻自在に。いずこへともなく姿を消し、忽然と目の前に現れる。テーブルの上で卵を包んでいると、ワッとその新聞紙にとびかかるが、空いている卵用のかごに彼女を放り込むと、意外におとなしく丸くおさまった。栗の木もスルスルと登り屋根へ。屋根の上の木陰が彼女の避暑地になった。私も年だの限界だのと言っていられなくなった。いつの間にか風邪のだるさも消えていた。なにしろ責任重大だ。最低10年、いや15年、ミーサに最後まで付き合わねば。
それにしても未曽有の多湿・高温にもかかわらず、というか逆にその強烈な日差しと時たまの驟雨のおかげか、野菜たちの元気のいいこと。身体の衰えゆえの苦肉の手抜き策がかえって良かったのかもしれない。土を耕さず、刈った草と完熟たい肥で畑を覆っただけ。晴天続きでも土が固まらないし、激しい雨にも土が流れない。カボチャはまるで強力なつる性の雑草のように(例えば葛)畑じゅうを占領している。ある朝、一瞬目を疑った。畑の間に立つ枇杷の木の真ん中にヒマワリのような豪華な花が開いている。ビワの花は冬だよねえ。真夏の白昼夢か? よく見ると、カボチャがはるばるとつるを伸ばし、枇杷の木に登り黄色の花を咲かせているのだ。花オクラは種も蒔いていないのに自力で芽を出し私の背丈以上に枝葉を茂らせ、毎朝、薄黄色の清楚な花々がいくつもぽっかりと緑の海に浮かんだ。モロヘイヤの林も雑草の勢いを凌ぐほど。ヘチマも長く太い実をあちこちに。あとオクラ、つる紫、エンサイ、ピーマン、ナス、トマト、キウリと少しづつだが青々と生きがいい。ごぼうと里芋も草に囲まれながら生きている。
鶏たちが元気なのは、ふんだんに食べる青草と、高々とぶ厚く葉を茂らせる栗、コナラ、ユリノキ、ハゼ、ねむの木、クルミ等々のおかげだ。鶏小屋と同様、人間小屋もトタンぶきだが、瓦・土壁の下の古屋より涼しい。雑草園の主役は雑草・雑木なのだ。その存在あってこその農・暮らしなのだ。
私も自然体で。これも老体ゆえの苦肉の策なのだが。とにかく30分でも1時間でも、集中してやれるだけやる。きつい仕事は死ぬまで生き抜くためのトレーニングと思って。すぐ横になる。何度でも。今の所は1日3回、10分から20分仮眠する。呼吸・腹の上下に意識を集中し、ゆっくりと息を吐くとき1、2・・・と数えていく。50を過ぎるころ、意識が空白に沈んでいく。
8月半ばを過ぎて、ミーサは倍以上の身体に。毛並みもよくなった。ノンの洗濯や草刈等にもついて回った。動きに力強さが加わった。垂直の柿の木も楽々と登った。子猫というより、若猫、人間なら十代か。すっかり落ち着いて山小屋の主然となった。ハッサンも遠慮して土間にはめったに入らないほど。時に両者、鉢合わせると、ミーサは一人前に毛を逆立て威嚇した。そのうち老いたトラの後継ぎとして私たちの暮らしをネズミから守ってくれるだろう
8月の終わりから、急に事が多くなった。少し涼しくなっていたのが、30日はねっとりと蒸し暑くなった。午後、しばらく休んで、土間に下りた。3時前だった。半袖のままだったのがいけなかった。ふと視界の左外れに見たくない曲線が横たわっていた。青みがかった灰色の縞模様、青大将が卵の入ったバケツへと鎌首をもたげていた。軍手をした時、動き始めた。スルスルとテーブルの奥の暗がりへ。正直、このヌルヌルの曲線が生理的に苦手だ。このまま消えてくれれば。ネズミも食べてくれるし。だがこの土間に潜まれるのは何としても避けたい。私は怯む思いを押し殺し右手でその太い紐の最後尾を握った。敵は必死の力で振りほどこうとする。私は左手で1メートル強の胴体の真ん中あたりをしっかりと掴み引きずり出し米袋に入れようとした。くねくねと折れ曲がって逃げる蛇のさらに上部を右手で掴んだ。痛みが右手首に走った。蛇の顎が食いついていた。へえ青大将も嚙むのかと他人事のように思いながら強引に引き離しそのまま袋に入れた。流れる血を水道水で洗い消毒した。車で7,8分、山の中で放した。敵は後ろも見ず瞬時に林に消えた。幸い傷はたいしたことはなかった。青大将にはマムシのような牙も毒もない。
9月になって、台風が近づいた。山小屋の屋根の点検だけはした。5日の夜は時折強風、息を呑むほどではなかった。朝3時、山小屋に上った。ミーサはいつもの通り。だんだんに風は強まった。ようやく灰色に明け始めた6時前、外に出た。ざわざわと木々が揺れていた。雨が斜めに流れていた。餌を運び、鶏小屋の戸を開けようとしたとき、地の底から湧きおこるような雄たけびをあげ巨大な風のかたまりが猛スピードで突進してきた。風は木々に乗り移り木々は風そのものとなり歓喜の叫びをあげて踊り狂いのたうち回り無数の枝葉や実を宙空にまき散らした。空一面を灰白色の膜が覆い、灰黒色の雲が至る所で湧き、揺れ、ちぎれ、彼方へと急流のように奔っていった。
昼頃には台風は去っていった。柿と栗の青い実がぼたぼたと落ち、ナスやピーマンやオクラは倒れ、花オクラの花も葉も吹き飛んでいた。
意外に、すぐに野菜たちは立ち直り、栗の実も大半は残った。鶏・人間小屋も無事だった。周りの雑木たちのおかげだ。 完 2022年9月11日
石風社より発行の関連書籍