8月9日(水)、4時起床、久しぶりの雨が柔らかく降っていた。5時過ぎ、空が白んできた。木々が黒々と浮かぶ。その奥からヒグラシのさざ波がひっそりと響く。木の葉に落ちる雨の音がザワザワとゆれた。里芋の葉に転がる小さな水の玉が白く光っている。
6時前、畑に。白々と明けた。この6月からの、特に7月の酷暑・酷湿には参った。カンカン照りの中に水蒸気が充満しているような。そして8月、日差しの鋭いこと、重いこと。すさまじいばかりの勢いの植物群。雑草たち、特にガラスの破片のような微細なトゲを全面に張り詰めるツル性の「ゲジゲジ」が雑草園を占領しつつある。ノンがこう呼び始めた。本来はムカデに似た節足動物のことだが、人から忌み嫌われている者の意にも用いられる(長年酷使されてボロボロの出版社不明の国語辞典による)。わが雑野菜たちも負けてはいない。まずマサメ、友人から豆を分けてもらった。小豆の兄貴分か、ちょっと大きく味も近い。煮豆のふくよかでしっかりとした食感がいい。2、3回草刈り、あとはナンにもしてないのにいつの間にか2メートル近くしかも幅広く密に、まるであの最強の雑草クズのよう。美しい花を咲かせ、どっさりと実をつけるとか。あと花オクラ、カボチャ、モロヘイヤ、つる紫、エンサイ、ゴーヤ、きうり、へちま……ごぼうも里芋もピーマンも健在。大雨でしおれたナスもつやつやとした葉を伸ばしつつある。あちこちにノンが植えたブルーベリーが初めて揃って豊作、連日私はちぎっては食べまくり(「人体実験」でもある。右目のかすみが少しは良くなるかも)、ノンは草刈りと収穫とジャムづくりに追われる。
栗、コナラ、ハゼ、ユリノキ、クルミ、銀杏、柿、桑、椿……高々と分厚く茂る木の葉にすっぽりと包まれ、鶏小屋も人間小屋も、入ってくる風に熱が感じられない。どころか涼しい緑の匂いがする。小屋全体が緑色だ。
この8月の暑さで、ミミズは地中深く潜ったのか激減した。7月はミミズのおかげで最長老の鶏たちが産卵率4割、大健闘だ。熊本から連れてきた若鶏たちは、体が十分にできないうちに早産しないようミミズからわずかの魚粉・大豆粕に切り替えた。今が盛りの2年目の鶏たちも、さすがに8月以降は魚粉と大豆粕をきっちりやらないと産卵がガタ落ちする。
10日(木)4時前起床、雨は降っていない。台風は一応接近しているとか。風は強くはないが生ぬるく荒涼として草木がてんでに乱れている、というか久しぶりの非日常と戯れているみたい。山小屋に覆いかぶさる木々全体が、突如襲来した強風にうねり唸り踊り狂い、ふっと静止し漂い揺れた。大きなポリバケツから、鶏の発酵飼料を取り出していると、底に何かがうごめいている。ウジ虫たちだ。ふと15年前のことが頭に浮かんだ。以下、大量のオカラと米ぬかをビニール袋に詰め発酵飼料を作っていたころの文を途中から。
先日、どうしたことか袋が開き、中に雨が入った様子です。見ると体長5mmから1cmほどのウジがうじゃうじゃと湧いている。これがまたクリーム色でスベスベプチプチして、フライパンでこんがり焼いて塩をふれば、ビールのつまみに最高かも。もちろん鶏の餌には最高です。それに動物質蛋白源である魚粉は餌のなかで最も高価、これにウジが替わることができたら……ふと地面に目をやると、袋からこぼれ落ちたであろう1匹のウジ虫が、何やらゆらゆらと踊っている。よく見ると、その下には何十匹ものアリたちがいます。彼らにとっては鯨みたいなウジの巨体を皆で背負い、すみかに運ぼうとしているのです。ウジは必死に体をくねらせ、何度か逃れかけますが、なにせ四方からアリたちが駆け付け、大群はふくれあがるばかりで、行進はじわりじわりと着実に進んでいきます。そのいかにも活気に満ちた様子はまるで祭りのようです。
ウジにとっては処刑台への行進なのですが……以下略
この時、けっこうウジの「養殖」はうまくいきかけたのだが、オカラがなくなって自然消滅したのだった。そうか、オカラなしの米ぬかと腐葉土と台所の残り等の発酵飼料でもウジは発生するんだ。さっそく「実験」を始めた。どうももう少し水分は多いほうが、温度は高くならないほうがいいようだ。ヌカは少なく、台所の残りは多く、よく混ぜ通気をよくして涼しいところに置いた。さてどうなるか。
それにしても、いつまでこんな無手勝手な農(暮らし)の遊びが続けられるかと、めっきり体力が落ちただけに思わざるを得ない。逆に、人生の終わりが見えてきたからこそ、遊びを極めなければとも思う。私にとって遊びは人生のテーマみたいなものだ。では遊びとは、と改めて考えてみると、これがわからない。あまりにも広く深い。私なりに身体的・直接的・創造的な一種の冒険として遊びを考えたい。遊びと仕事との区別は必ずしもはっきりしていない。穴掘りや草取りも苦役にも遊びにもなる。酒飲みも苦役になりうるし、ごみ拾いも遊びになる。遊びを静的固定的に形態として定義できない。遊びとはあくまで「状態」だろう。現実的功利的日常生活とは異次元の、自由で解放的な世界にある「状態」が遊びではないか。自身の体力、知力、気力、感性等々を自在に存分に発揮して何かを創る。自身の生を創る。困難に立ち向かう。あるいは、ただ空(くう)に身を横たえる。空の響きを聞く。風の流れを、草木の揺れを感じる……その生き生きとした過程、解放的な状態が遊びではないか。何かのためや何かよりなどナーンニモない。
そうなると老いは遊びそのものだ。ナーンニモ役に立たなくていい。ただ生き生きと生きればいい。赤ん坊のように。
腹を据えて、老いのど真ん中を生きたいものだ。よろよろと休み休み、目いっぱい、老いを遊びたいものだ。 完 2023年8月25日