ずいぶん久しぶりに、朝倉方面からの帰路、冷水峠を越えた。紅・黄葉はまだのようで、かつて数軒店があった峠付近は空っぽの印象、鈍い常緑樹ばかりが目に入った。もう40年近くが過ぎた。妻と私と山羊のジン、鷄十羽、ウサギ一対と軽乗用車でこの道を走り、福岡市から筑豊に移り住んで来てから。
それから十数年後、妻と小、中学生の子ども達三人と、格安で手に入れたばかりの軽ワゴン車で久留米に行き、憧れのマルボシラーメンを食べ、妻の母を訪れた。その帰り、まず八丁越、次いでこの冷水峠に挑戦したが、エンジンがへなへなと力抜け登れず引き返した。すでに夕方、三月初めの風は冷たい。修理する金はない。筑豊に帰るには、どこかの峠を越えなければならない。
ただ一つ、冷水トンネルがすでに開通していた。だがわたしは生来の高所・閉所恐怖症なのだ。これがなければ登山家か極地探検家になっていたのに。もっともこれに人間恐怖症が加わるのだから、どっちみちだめか。要するに臆病なのだ。もしトンネルの中で車が息絶えたら・・・。しばらく平地を走らせた。エンジンはどうやら生気を取り戻した。トンネルの前の長い緩やかな坂を無事にしのぎ、目を瞑る(つむ)ような思いで穴の中に突入した。妻はこんな時はなぜか気丈だ。子供たちの手前、私は平静を装っていたが、前方に明るく丸い出口が見えるまでの長かったこと!
今もだが、当時は本当に金がなかった。鷄三百で月6、7万と野菜の収入少々、これで一家五人暮らしたのだ。だが不思議と貧乏という思いはなかった。土に種を落とせば野菜は芽吹く。果物も山菜も野草もある。流れ水はないが、それほど汚染されていない天水がある。薪や材木もふんだんに。現代物質文明のおこぼれというより廃棄物も。耳パン・おから・魚のアラ・古小米・・・衣類・電気機器・農工具・トタン・自転車・・・。
都会のサラリーマン暮らしを脱落した番外の人だったので、他と比較されることがない。これは実に軽々とした気分だった。絶対的貧困は別として、他との比較あって初めて貧乏という概念は成立する。
住も食も自身で創るしかなかった。思いのほか楽しかった。幼い頃、病弱で弱虫でろくに喧嘩も外の遊びもできなかった。冒険家にもなれなかった。その埋め合わせをしていたのかもしれない。根っからの不器用ものだったので、とにかく自身ですみかを作ったというだけで、天にも昇る心地だった。小心者なので、風呂・かまど作り、鶏や山羊、イタチ、キツネ、カラス・・・との付き合い等々、些細なことにハラハラドキドキの連続だった。雨漏りや冬の寒さ、台風さえも、遊び・冒険だった。その最高峰が子育て、共育だった。
ここでいう遊びとは、幼児にとってそうであるように生きることそのものだ。最も躍動感と安らぎと解放感に満ちた一瞬一瞬だ。目的・結果ではなく過程こそ本質なのだ。ある意味厳粛な生命(生と死)の流れなのだ。
2011年春、卵屋をやめようと決心したのも、この原点に返るためだ。私達現代人は遊びを創造することを忘れてしまった。ひたすら金を追い求め、次から次へと非日常・安楽を消費した。挙句、色あせた日常と膨大な廃棄物、極めて深刻な環境破壊とが残った。なおも私達はただより多くの金を求めひた走っている。なんのためなのか考えもせずに。
それにしても、巨大グローバル企業ががっぽりと儲かったからといって、なんで私達庶民の暮らしが良くなるんでしょうね。なんで私達が巨大企業=現政府自民党(そしてアメリカ)を応援しなければならないのでしょうね。基本的人権、生命までも犠牲にして。
あんなに盛んだった葛の葉の群れが一気にしおれ、アワダチソウは焦げ付いたように枯れ、ススキは生気が抜けきってしまった。柿とくるみの木は裸に、銀杏やユリノキの葉もほとんど落ちた。ハコベ、ギシギシ、ヨメナ等、生き残りの柔らかな緑が覆う野山に、栗の黄葉がくっきりと浮き上がっている。
やはり六十を過ぎると、早朝、布団から闇に起き上がるのが重い。灰色に明け始めた外への第一歩も。生きることを遊ぶのも楽じゃないとつくづく思う。当然、いつも死と隣り合わせだ。誰だってそうなんですけどね。この地に来て八年目、一家全滅寸前のところを周りの人々に助けられた。元気な時はいいが、生命力が落ちた時は過酷だ。
夕方、薪ストーブの炎が身体と心にしみる。グラグラと煮え、じんわりと味のしみた大根。取ってきたばかりのシイタケ、次いでサンマ。香ばしい匂い・煙、ジュージューと油が落ち、炎が伸び上がり、網の上の青い身を包む。そして大根おろしの冷んやりとした辛味と土の甘み・・・。
三人と一匹、無言でストーブと食卓を囲む。 よくここまで生きてこれたものだと思う。感謝、感謝・・・。
2013年11月29日